色部長門
汚名を被り、米沢藩を守った上杉家の家臣です。
戊辰戦争で米沢藩は、奥羽越列藩同盟の盟主として越後方面の警備を担当、色部長門は総督に命じられ藩兵約600を率い出陣しました。本陣を関屋(新潟市)に置き、戦略上の要地である新潟港の管理にあたる一方、前線の指揮にあたりました。しかし、戦況は次第に新政府軍が優勢となり、色部の守る新潟港にも薩摩藩の大軍が攻め寄せました。
このため色部総督は、同盟軍に解散・帰藩を命じ、自らは最後に出発しましたが、その撤退の途中で薩摩軍と遭遇。ここで逃げれば米沢藩の名誉にかかわると、敵の大軍に斬り込み壮絶な戦死をとげました。慶応4年(1868)年7月29日、久長44歳でした。
戊辰戦争の終了後、米沢藩へは藩主斉憲の隠居(茂憲が家督)と4万石の召し上げの処罰が下され、戦争首謀者の調査が命じられました。
米沢藩はこの命令に苦慮し、すでに戦死した色部を届け出ました(仙台・山形藩は家老を届け出、斬首の極刑に処された)。このため、米沢藩では処刑者は出ませんでしたが、色部家は罪を負って断絶となりました(明治16年にようやく許されました)。
色部長門の追念碑
色部長門の追念碑(上杉伯爵邸裏)
二つ建てられた追念碑のうちの一つです。
戦争の首謀者として米沢の罪を被った色部長門を顕彰するために色部長門顕彰会が結成され、建碑の為の寄付金を募り、昭和38年に市制70周年記念事業の一環として上杉伯爵邸内に「色部長門追念碑」が建立されました。