山吉新八
元禄赤穂事件(忠臣蔵)で活躍した米沢藩士です。
山吉新八は元禄赤穂事件(忠臣蔵)の際に、吉良家側で最も活躍した米沢藩士とされています。新八は討ち入りの翌年に諏訪高島へ追放刑となった上杉綱憲の息子で、吉良義央の養子である吉良義周に随い、身の廻りの世話をし、吉良義周の死後米沢に戻りました。米沢藩はその功績に対し藩士(五十騎組)にとりたてました。
山吉新八の墓(照陽寺)
山吉新八の墓(照陽寺)
上杉家の土地で眠りに付きました。
新八は宝暦2年(1752年)に隠居して子の伊八郎盛起に家督を譲りました。その後宝暦3年(1753年)7月28日に息を引き取り、照陽寺に葬られました。