雲井龍雄
米沢に生まれ幕末から維新期にかけて活躍した志士です。
米沢藩士中島惣右衛門の次男として米沢に生まれました。小さい頃から勉学に優れていた龍雄は、14歳から藩校「興譲館」に学びました。22歳で米沢藩の江戸藩邸に出仕。そのかたわらで安井息軒の三計塾に入門し、さらに学びを深めていきました。その中で全国から集まった塾生と交友を広めると共に、時勢に目覚め、日本の将来を真剣に考えはじめます。
幕末の混乱期には米沢藩の命を受け帰藩。その後京都で活動します。その中で薩摩藩の横暴を目にした龍雄は、戊辰戦争中に薩摩藩を批判した漢詩「討薩檄」を作っています。
戊辰戦争終結後、龍雄は米沢藩の推薦を受け新政府の集議院に勤めますが、戊辰戦争中の言動などが仇となってしまい、ひと月足らずで集議院を追われてしまいます。
それでも自分の信念・理想を貫いた龍雄は、政府に不満を持つ人々を集め「帰順部曲点検所」を組織し、新政府に対抗しようとしますが、この行動が政府への陰謀とみなされ逮捕。27歳で刑死しています。
討薩檄(とうさつのげき)
討薩檄
龍雄の熱い思いが伝わります。
龍雄が戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の士気を鼓舞するために作った漢詩です。その内容は薩摩の一連の主張や行動を痛烈に批判するもので、龍雄の薩摩に対する強い憤りが伝わってきます。実際の戦闘で同盟は官軍に敗れますが、討薩檄は薩摩や長州の視点とはまた別の視点を訴えるものとして、現在まで伝わっています。北村公園の一角には龍雄のレリーフがあり、その台座に討薩檄が刻まれています。
雲井龍雄の墓
雲井龍雄の墓
米沢の地へ戻るまで長い年月がかかりました。
小伝馬町牢獄で刑死した龍雄は、小塚原の回向院に葬られたのち、米沢出身の山下千代雄の手で谷中の天王寺に改葬されました。米沢では親族が遺髪を持ち帰り、常安寺に墓を建てていましたが、昭和5年、龍雄の60年忌に際して、有志の手で米沢に遺骨が戻され、新たに墓が建たてられました。現在も命日にあわせ有志による雲井祭が催されています。
憂国志士・雲井龍雄遺跡碑
憂国志士・雲井龍雄遺跡碑
養子となった小島家の屋敷があったとされる場所です。
龍雄は18歳で叔父にあたる小島才助の養子となり、その後才助の病死により20歳で小島家の家督を継いでいます。小島家は米沢藩の下級家臣で、家は現在の米沢市城西一丁目にありました。昭和13年、龍雄を顕彰するため、小島家の跡に建てられました。