前田慶次
景勝に仕える傾奇者(かぶきもの)と呼ばれていた武将です。
漫画「花の慶次」の主人公で、加賀百万石の前田利家の甥にあたります。文武両道に優れ、直江兼続との親交により上杉景勝の家臣となり、米沢の堂森に居を構えました。全国の諸大名などとの逸話や奇行は数えきれず、今に伝えられています。
前田慶次供養塔(堂森善光寺内)
前田慶次供養塔
前田慶次の供養塔があります。
万世町堂森にある松心山善光寺は、真言宗豊山派の寺院で出羽善光寺とも呼ばれています。開基は大同2年(807年)とされ、また、長井時広が再建したとも伝えられています。境内には「前田慶次供養塔」があり、毎年6月に供養祭が行われます。近くには慶次が晩年過ごした庵の跡や飲用水として使っていた「慶次清水」など、前田慶次ゆかりの地が点在しています。
慶次の力石(堂森善光寺内)
慶次の力石
慶次が力試しに持ち上げたといわれる石です。
慶次が里人と力試しをしたと伝えられる安山岩の石。ここで余生をおくった慶次は、地域住民との交流を盛んに行ったといわれています。月見平(堂森善光寺内)
月見平
ここで月見などの遊山を楽しんだといわれています。
慶次が地域の住民や友人を招いて、たびたび月見などの遊山を楽しんだとされる場所です。ひょうたんの形をした平地で、中心には江戸時代から続く山の神講の祠が祀られています。
慶次清水
慶次清水
慶次が使用していたといわれる清水は、現在も水が湧き続けています。
慶次の屋敷「無苦庵」の飲料水として掘られた清水です。約100m2の清水池は、現在も農業用水として機能しています。傍らには水神様が祀られています。
志田修理義秀の墓(堂森善光寺内)
志田修理義秀の墓
慶次の友人の墓です。
志田修理義秀は、与板衆の中枢として兼続を補佐し、庄内支配を担当していました。慶長6年(1601年)、最上軍の庄内攻めで奮戦。慶長7年に荒砥城城代、元和8年(1622年)に奉行となっています。お墓は堂森山の中腹にあり、万年塔の形式ですが、観音開きの格子目状の塔身が特徴です。
太郎兵衛屋敷跡
語り継がれてきた逸話の舞台です。
慶次が新築祝いに招かれたとき「満ちれば欠けることに気づけ」と床柱を斧できりつけ、諭したとされる逸話の舞台です。
無苦庵跡
慶次が余生をおくったされる屋敷の跡です。
無苦庵とは、慶次が余生をおくったとされる屋敷です。庵が存在したとみられる範囲には、土塁の一部と堀の跡が残っています。
慶次の友人でもあった直江兼続や志田修理義秀らも、庵を訪ねたといわれています。
宮坂考古館
宮坂考古館
上杉景勝、直江兼続、前田慶次の甲冑を展示しています。
宮坂考古館は、故・宮坂善助氏が一生涯をかけて収集した、米沢・置賜地方の貴重な資料・文化財約700点を収蔵・展示している博物館です。館内には、直江兼続が長谷堂の合戦で着用したといわれる甲冑「浅葱糸威錆色塗切付札二枚胴具足(県指定文化財)」、上杉討伐で北上した徳川家康を迎え撃つため白川へ出陣した際に上杉景勝が着用したといわれる甲冑「浅葱糸威黒皺韋包板物二枚胴具足(県指定文化財)」、前田慶次郎が所用したといわれる甲冑「朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足南蛮笠式」などのほか、米沢藩に伝わる甲冑や火縄銃、槍など数々の上杉家に関する貴重な文化財が展示されています。