堀粂之助関連
戊辰戦争時、米沢に命がけで援軍の要請に来た会津藩士です。
文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保が京都守護職に就任すると、尊王攘夷派志士の取り締まりや禁門の変において幕府側の中核を担うようになり、薩摩・長州を中心とした新政府は、幕府側の首謀者として会津藩に対しての追討令を仙台藩、米沢藩に命じます。追討を命じられた仙台藩、米沢藩などの東北諸藩は会津藩と共に奥羽列藩同盟として新政府軍と対立することを選び、やがて戦争へと発展しました。堀粂之助は、戦争の当初母成峠の守備をしていましたが、戦況は徐々に不利になり、新政府軍は白河、二本松を占領し、粂之助の守る母成峠を突破し、若松城下に攻め入ります。この結果、会津藩は若松城を最後の拠点として篭城戦を強いられることになりました。
その際に粂之助は吉村寅之進とともに援軍依頼のために米沢城下に至ります。
しかし、この時点で米沢藩は、新政府軍に従うことがほぼ決まっていたため使命を果たすことができませんでした。
米沢藩への援軍依頼が果たせなかったことを恥じた粂之助は、慶応4年(1868年)9月4日に米沢東町「越後屋」の主人に後事を託すと、辞世の句を残して自害しました。
堀粂之助の墓(竜泉寺)
堀粂之助の墓(竜泉寺)
辞世の句が彫られた碑
辞世の句
神かけて 誓ひしことの かなはずば ふたたび家路 思はざりけり
神かけて 誓ひしことの かなはずば ふたたび家路 思はざりけり
死に際に残した粂之助の句が今も残っています。
右側の墓が堀粂之助が死去した当時に作られた墓で、墓の手前の石碑には、粂之助が割腹する際の悲壮な決意を表す辞世の句を読む事が出来ます。