上杉謙信関連の史跡
上杉神社
上杉神社
上杉謙信が祀られています。
明治9年、上杉謙信、上杉鷹山を祭神として、米沢城本丸跡に建立されました。明治35年に別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ=明治政府が定めた神社の位置づけ、分類を表す。国に尽力した人物を祀る神社)に指定され、このとき祭神は謙信のみとなり、鷹山は摂社に祀られ松岬神社となりました。
大正8年に起こった米沢大火で類焼、ほとんどの建物が焼け落ちてしまいましたが、その後国からの援助金や米沢市民の労働奉仕などにより、大正12年、現在の神社が完成しました。設計は米沢出身で、神社建築の第一人者伊東忠太博士です。
上杉神社は今でも米沢市民の心の支えとなっていて、初詣やお宮参り、結婚式や安全祈願など、四季を問わず多くの市民が訪れています。
神社内には、上杉神社の宝物殿である稽照殿があります。
稽照殿
稽照殿
上杉家の貴重な宝物を収蔵、展示しています。
上杉神社の宝物殿として刀や甲冑、絵画など約300点が収蔵展示されています。中には国の重要文化財に指定されているものも多々あり、歴史ファンは必見です。直江兼続が所用していたといわれている「金小札浅葱糸威二枚胴具足」、いわゆる「愛」の前立の甲冑が展示されています。
他にも、上杉謙信が所用した鎧の中でも逸品といわれる「色々威腹巻(重要文化財)」や、上杉景勝が所用した「紫糸威伊予札五枚胴具足(日輪の前立て)(県指定文化財)」など、上杉家由来の数多くの宝物を見る事ができます。
松が岬公園・謙信公祠堂跡
松が岬公園・謙信公祠堂跡
上杉謙信の遺骸を納めた御堂が建てられていた場所です。
松が岬公園の南東の高台にある謙信公御堂跡(米沢城本丸南東)。ここは米沢城下で最も高い場所として造られ、上杉謙信の遺骸を納めた御堂が建てられました。謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られていました。明治5年、御堂のまま謙信を祭神に改め、合わせて上杉鷹山と共に合祀し、上杉神社としました。明治6年には米沢城の全てが破却され、明治9年に上杉神社は上杉城本丸跡である現在の位置へ社殿を建てて移動。謙信の遺骸は上杉家御廟所へ移されました。
本丸跡にあった御堂は解体・移築されて、北寺町にある長命寺本堂として現存しています。
上杉家廟所
上杉家廟所
歴代藩主の廟
上杉謙信をはじめ米沢藩代々の藩主が眠っています。
上杉景勝が亡くなった元和9年(1623年)より上杉家の御廟所とされました。以後、歴代の藩主が埋葬されてきました。明治6年の米沢城解体に伴い、米沢城に安置されていた上杉謙信の遺骸も、明治9年、御廟所へ移されました。
廟屋は、上杉景勝から7代藩主・上杉宗房までが入母屋造り、8代藩主・上杉重定(藩政を立て直した名君・上杉鷹山の義父)から11代藩主・上杉斉定までが宝形造りと時代により建て方に変化があります。
樹齢400年を越す老杉に囲まれ、厳粛な空気に満たされている御廟所は、大名の墓所の代表例として国の重要史跡に指定されています。