直江兼続関連の史跡

松岬神社
松岬神社
上杉景勝、上杉鷹山、直江兼続ほか3名が祀られています。
 明治に入り、上杉神社に上杉謙信とともに祀られていた上杉鷹山が松岬神社に分祀されました。大正12年上杉景勝が合祀され、昭和13年、米沢市制施行50周年を記念して、新たに直江兼続、鷹山の師細井平州、重臣竹俣当綱、莅戸善政が配祀されました。
稽照殿
稽照殿
上杉家の貴重な宝物を収蔵、展示しています。
 上杉神社の宝物殿として刀や甲冑、絵画など約300点が収蔵展示されています。中には国の重要文化財に指定されているものも多々あり、歴史ファンには必見です。
 直江兼続が所用していたといわれている「金小札浅葱糸威二枚胴具足」、いわゆる「愛」の前立の甲冑が展示されています。
 他にも、上杉謙信が所用した鎧の中でも逸品といわれる「色々威腹巻(重要文化財)」や、上杉景勝が所用した「紫糸威伊予札五枚胴具足(日輪の前立て)(県指定文化財)」など、上杉家由来の数多くの宝物を見る事ができます。
入館時間
9:00~16:00(最終入館15:45分まで)

休館日
12月~3月下旬の冬期間
(1月1日~3日、2月の雪灯篭まつり期間は開館)

拝観料金
一般400円(350円) 高・大300円(250円)
小・中200円(150円) ※( )は20名以上の団体料金
春日山林泉寺1
林泉寺山門 春日山林泉寺2
直江兼続夫妻の墓
米沢藩歴代藩主の奥方や子女、直江兼続夫妻のお墓があります。
 林泉寺は今から約500年前、長尾景虎(後の上杉謙信)の祖父長尾能景が父重景の菩提を弔うために、越後国高田に建立されました。その後、上杉家を相続した謙信によって上杉家の菩提寺となりました。
 慶長6年(1601年)、上杉景勝の米沢30万石減封によって、林泉寺も米沢に移りました。
 境内には上杉景勝の正室菊姫(武田信玄の娘)や景勝の母仙桃院、鷹山の側室お豊の方など、歴代藩主の奥方や子女の御廟のほか、直江兼続夫妻や武田信綱のお墓などがあります。
拝観時間
9:00~17:00

拝観料金
境内拝観 100円
堂内拝観 300円

※冬期間(12月1日~3月31日)は予約制となり、時間も9:00~16:00となります。また、法要等により拝観できない場合もあります。

公式サイト
曹洞宗春日山林泉寺
法泉寺
法泉寺
直江兼続が建立したお寺です。
 法泉寺は初め禅林寺という名前で、1618年直江兼続が創建しました。
 兼続は足利学校で学ばせていた九山禅師を呼び寄せ、寺内に米沢藩士の子弟を教育するための学問所「禅林文庫」を開設。藩学の基として、後に上杉鷹山が創設した興譲館へと受け継がれました。 兼続が収集した禅林文庫の蔵書は、今でも貴重な文化財として残っています。
 また、庭園は九山禅師が京都天竜寺の名園をまねて造ったと伝えられており、米沢三大名園のひとつになっています。
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東源寺
東源寺 東源寺の五百羅漢
羅漢堂に安置されている五百羅漢
直江兼続夫妻の位牌が安置してあります。
 萬用山東源寺は、上杉氏の家臣となった尾崎氏とともに信州(長野県飯山市)から米沢に移ってきた寺院です。
 境内には五百羅漢像が安置されている「羅漢堂」があります。この羅漢像は天保の末期から文久3年(1863年)まで、20年余りをかけて米沢で作られました。羅漢像の右前には羅漢の名前と寄付をした人の名前が記された木札があり、武士、僧侶、町人、農家など様々な人の志で出来たことがわかります。五百体の羅漢像は一人ひとり表情が異なり、その中に必ず自分の身近な人の面影を見つけることができるといわれています。
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宮坂考古館
宮坂考古館
上杉景勝、直江兼続、前田慶次の甲冑を展示しています。
 宮坂考古館は、故・宮坂善助氏が一生涯をかけて収集した、米沢・置賜地方の貴重な資料・文化財約700点を収蔵・展示している博物館です。
 館内には、直江兼続が長谷堂の合戦で着用したといわれる甲冑「浅葱糸威錆色塗切付札二枚胴具足(県指定文化財)」、上杉討伐で北上した徳川家康を迎え撃つため白川へ出陣した際に上杉景勝が着用したといわれる甲冑「浅葱糸威黒皺韋包板物二枚胴具足(県指定文化財)」、前田慶次郎が所用したといわれる甲冑「朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足南蛮笠式」などのほか、米沢藩に伝わる甲冑や火縄銃、槍など数々の上杉家に関する貴重な文化財が展示されています。
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開館時間
4月~9月 10:00~17:00
10月~3月 10:00~16:00

休館日
月曜日、祝祭日の翌日

入館料
一般400円(350) 高・大300円(250)
小・中100円(50)
※(  )は20名以上の団体料金

公式サイト
宮坂考古館
直江石提
直江堤公園 直江石提2
直江石提
直江兼続が造らせた石堤が今も残っています。
 直江兼続は米沢に移封後、まちづくりとともに暴れ川だった松川(最上川)の水害を防止するため、総延長10kmにおよぶ谷地河原堤防(直江石堤)と蛇堤を築きました。
 蛇堤とは地元の通称で、大小の河原石を横にならべて積み上げる「野面積(のずら)」と呼ばれる、戦国時代の石垣造りの工法です。この工事は下級武士を従え、兼続自ら指揮をとったといわれています。
 現在では直江石堤が残る河川敷が公園として整備され、地元の人々の憩いの場となっています。
 その一角には散歩コースがあり、道沿いには直江兼続の偉業を紹介する石碑が点在し、歩きながら兼続の生涯をたどることができます。
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龍師火帝の碑
龍師火帝の碑
洪水防止と干ばつ防止を祈る
 龍師は水神、火帝は火神の意味です。
 直江兼続が洪水防止と干ばつ防止を願い建立したといわれています。直江石堤の上流、猿尾堰取水口のそばにあります。
 石碑の大きさはは幅約2.9m、奥行き約1.6m、高さ約1.5m。風化のため、石碑にある文字はほとんど見えなくなっていますが、「龍師火帝」の字が線刻され、弥勒の種子の下に「傳燈叟髄(でんとうそうずい)記之」と陰刻されています。
 上流70mにあったこの石碑は、平成12年の河川工事の際に現在の地へ移転しています。
 「龍師火帝」の字句は、梁の武帝が作らせたといわれる『千字文』の句と言われています。
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神達明神
神達明神
兼続が譲り受けた木像を祀る
 直江兼続が上杉景勝に従って上洛したおり、富士山麓にある曽我兄弟を祀った社から木像を譲り受けました。そして越後へ持ち帰り、実父・樋口惣右衛門兼豊が守る直峯城に社を建てて安置したと言われています。
 後に上杉家の米沢移封に伴って社も米沢に移り、兼続の実家である樋口家に隣接して祀られました。
 その後、明治12年に町内の鎮守の神となりました。 大正6年に米沢大火があり、現在の社が再建されました。
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猿尾堰1
猿尾堰取水口 猿尾堰2
猿尾堰取水口のある直江石堤の上流
南原地区の灌漑、生活用水
 猿尾堰は米沢市の南部李山地内にあり、松川(最上川)の水を分水し、掘立川を通って南原地区の灌漑や生活用水としました。
 また、堀立川は米沢城西側の外堀の役目をしていたことから、猿尾堰は大変重要な堰だったといえます。現在もここから分水された水は、米沢市の東南地区の農業用水、融雪用水として活躍しています。
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帯刀堰1
鬼面川より取り入れられた水・木場川上流
写真上部の林向こうを鬼面川が流れています。
帯刀堰2
帯刀堰と木場川の由来を伝える碑
帯刀堰近辺にある、堰と木場川の由来を後に伝えるために平成元年に建立された碑。
中・下級家臣団の生活用水
 直江兼続が家臣の松本助兵衛高次に命じて慶長15年(1610年)、鬼面川から水を引くために造らせた堰です。
 元々は、西川堰と呼ばれていましたが、武士達が刀を腰に差して労役に従事した事から、後に『帯刀堰』と名を改めました。
 帯刀堰から引かれた水は木場川を通って米沢の西北部の農業用水として、西北部に住む中・下級家臣団の生活用水として使われました。
 また、この木場川は、米沢藩の薪の供給手段として木流しによる薪の運搬集積に利用されました。その事にちなんで、木場川と呼ばれたと言われています。
 木場川は現在も、米沢の西北部の農業用水として、冬の消融雪の手段として米沢の生活を支えています。
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西明寺1
直江兼続の詩が刻まれた碑
西明寺展望に題す
直江山城守兼続詩

遠山西に望む 西明寺
はるかに憶う 最明寺投宿の秋
暮日林間まさに 外にめぐらんとし
無端の衣色 金風に満つ
西明寺2
直江兼続の詩碑から眺める米沢市
直江兼続が米沢の町を眺めた地
 西明寺は米沢市街の西南、なでら山の麓にあります。元々は越後にあった寺でしたが、上杉家が会津、米沢と移封になる度に移動してきました。
 この寺は、町中より高めの場所にあるため、米沢市街が見渡せます。 直江兼続は、時々この寺を訪れて、米沢の町が出来て行く様を眺めていたと言われています。
 鷹狩りの際に寺に立ち寄り詠まれたという詩が、石碑として寺院内に建てられています。

 西明寺には、直江兼続の詩碑の他、上杉綱勝が会津から嫁いだ媛姫の病気全快を祈願して植えたといわれる『虎尾樅(トラノオモミ)』の木(山形県指定文化財(天然記念物))、綱勝公が再建したといわれる薬師堂、そして米沢市指定文化財である西明寺木造十一面観音坐像があります。
 また西明寺の北には、伊達政宗の父・輝宗を弔うために建てられた覚範寺(かくはんじ)跡があります。
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羽黒神社
羽黒神社
直江兼続が再建した神社
 羽黒神社は大同元年(806年)、羽黒堂「羽黒大権現」として大窪沢の山頂に創建されました。それから約430年後の暦仁元年(1238年)現在の場所に移されました。
 元亀元年(1570年)伊達、芦名氏の「横檀原の合戦」で本殿を消失しましたが、慶長3年(1598年)直江兼続が再建したといわれています。
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直江城州公鉄砲鍛造遺跡の碑
白布温泉街にある
「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑
直江兼続が火縄銃の製造をさせていた土地です。
 慶長6年(1601年)、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に減封され、それに伴い兼続も米沢に入り、城下町の整備を行うとともに、その陰では戦いの準備とも言える鉄砲製造に着手しました。
 関西方面から鉄砲師を呼び寄せ、人里離れた白布高湯(現白布温泉)にて火縄銃を製造させました。もともと白布高湯は鉄砲製造に必要な石炭、火薬の原料の硫黄が豊富で、造られた鉄砲の数は1000挺にのぼるといわれています。
 また兼続は、鉄砲の撃ち方などを記した「鉄砲稽古定」を発し、射撃訓練を奨励しました。
 この鉄砲製造と射撃訓練奨励は、「大阪冬の陣」で成果が発揮され、後に徳川秀忠より感謝状が贈られています。
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(地図上では白布温泉街付近を目印に設定しています。)
兜山
兜山(中央奥の山が兜山です。)
直江兼続が登ったと言われている山です。
 関ヶ原の戦いの後、米沢30万石へ減封された兼続は新しい城下町造りに着手しました。
 その際に、南北に伸びる主要な道路は兜山を目印に造ったとされており、現在も米沢市内の主だった道からは、正面に兜山を見ることが出来ます。
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